2021年4月11日 (日)

【美術館】「吉田博」展/パラミタミュージアム

【美術館】「吉田博」展/パラミタミュージアム (2021年04月11日、三重県菰野町)

吉田博という作家の名前は去年、東京八王子の東京富士美術館で初めて知りました。その時はたしか所蔵品が2点ほどしか展示されてなかったのですが、昭和初期という時点で北アルプスに籠って雄大な風景を版画にすることに成功していて、予想外の発見でした。今回割と近場の三重県で展覧会が開かれているので行ってきましたが、観客が意外と多く、元々有名な作家だったようです。

この人の作品の良さは「大きな風景」(北アルプス、富士山、瀬戸内海、アメリカやヨーロッパの山岳風景、など)の描写にある、と思いました。「瀬戸内海集」などの作品では空気感を版画で見事に表現できていると思います。

他方で「町の風景」(東京など)になるといかにも「浮世絵」風です。これは外国に売ることを考えて意図的にそうしている可能性もあります。

 

2021年3月26日 (金)

「小説集 夏の花」(原民喜、1983年、岩波文庫)

「小説集 夏の花」(原民喜、1983年、岩波文庫)

この本も「文庫解説ワンダーランド」(斎藤美奈子、2017年、岩波新書)で取り上げられていたものです。

「夏の花」を読むと「はだしのゲン」を思い出します。小学生のとき少年ジャンプに連載された「はだしのゲン」をリアルタイムで読みました。8月6日の朝、「私」(おそらく原民喜)が起床したちょうどそのころ、ゲンは(作者の中沢啓治は)登校の校門で女性に呼び止められて会話をしていると米軍機が飛来していることに気が付いて...。


「文庫解説ワンダーランド」によれば「夏の花」について大江健三郎、リービ英雄らの論者がこの作品を私小説として評価する評論を展開しているようですが、正直言って私にはそれらをよく理解できません。実体験の報告と創作とが渾然一体になったような小説を私小説というのか、と今頃理解したレベルですね。

「はだしのゲン」では被爆者に対する理不尽な行為・態度・差別・偏見も描かれていて読み進めるのが本当にきつかった(結局、連載を最後まで読んでません)。しかし、原民喜の「小説集 夏の花」にはその側面の記述はほとんどないです。

この小説集に収録された作品のなかでは原爆直後を描いた「夏の花」「廃墟から」などよりは、戦中・戦後の生活を描いた「壊滅の序曲」「氷花」などに私は興味があります。

とくに「氷花」は戦後の混乱の中で彷徨う知識人を描いている。戦後1年以上経過して2人の兄はもちろん、夫を亡くした姉と妹も新しい生活を徐々に作っていっているにも拘わらず、ただ一人本人(これも原民喜本人か)だけはっきりしない状況が続いています。これは単なる知識人の弱さ、もあるかもしれませんが、民樹が妻を失って家族を持たないから、というのもあるのではないか。

 

2021年3月23日 (火)

【美術館】メナード美術館 (2021年3月18日)

【美術館】メナード美術館 (2021年3月18日、愛知県小牧市)

去年の6月以来で、今年初めての訪問である。

今回の展示で初めて見た作品は

アンリ・ルソー「工場のある風景」
パブロ・ピカソ「オルガ・ピカソの像」 ピカソだけどピカソらしくない、正統的な画法で描かれた作品は、ピカソのベーシックな絵画能力を見ることができて好きです。

などでした。

制昨年が最も新しい作品は
濱田樹里「花潮」で2018年である。ひりひりするような「赤」です。

 

2021年3月 8日 (月)

「雪国」(川端康成、新潮文庫)

「雪国」(川端康成、新潮文庫/原作は昭和12(1937)年)

これは高校生のときに挑戦したけれども、始めの方で早々と挫折してしまった。登場人物の発言がまったく理解不能だったのだ。
最近、「文庫解説ワンダーランド」(斎藤美奈子、2017年、岩波新書)で取り上げられているのを読んで、今回40年ぶりに再挑戦する気になった。
昔買った新潮文庫版(昭和22年発行。昭和48年改版)で読み始めたが、途中で現行の新潮文庫版(平成18年改版)には注が付いていることを知ったので、そちらも購入して参照した。


今回最後まで読み進めて結局最後まで謎だったのは、駒子と葉子と行男の関係だ。周囲は駒子は行男の許嫁であると思っているが、駒子自身は強く否定している。確かに葉子と行男が温泉町に帰ってきたときにはすでにこの二人の関係は密で、駒子は彼らに対して距離すら置いている。
この謎は島村にとっても同様で、駒子から聞き出そうとしたり、三回目の温泉町訪問でついに葉子と直接会話したりするわけだが。

斎藤美奈子著「文庫解説ワンダーランド」で、斎藤さんは

駒子の自尊心を無視して彼女をモノにした島村は、その瞬間から駒子への興味を失い、葉子に関心を移したのではなかったか。

と書いていますが、島村の駒子に対する思いの変化と、葉子への関心とは別のように私には思えます。島村が駒子を"モノにした"のは1回目の温泉町訪問の時だけど、二回目の訪問の目的は駒子に会うためでしょう。三回目の訪問もです。二回目の訪問の車中で葉子を偶然目撃して以来、島村は葉子に惹かれてはいたけど、葉子を"モノにしよう"という気持ちは無いのでは?

島村の駒子に対する気持ちの退却は二回目から三回目の訪問で徐々に進行していったようですが、そのプロセスはやはり難解です。単に「東京に妻子がいるから」を理由にしてしまっては身も蓋もないですね。

 

2021年3月 7日 (日)

【コンサート】モーツァルト:交響曲第41番ほか/セントラル愛知交響楽団

【コンサート】モーツァルト:交響曲第41番ほか/セントラル愛知交響楽団 (2021年3月6日、名古屋伏見・しらかわホール)

曲目:
シュレーカー:室内交響曲
モーツァルト:交響曲第41番

久しぶりのセントラル愛知。演奏会の体制は前回(去年の9月25日)と同じで、チケットの半券に連絡先記入、客席は1人置き、休憩なしで総演奏時間は1時間程度、といったぐあい。

シュレーカーは初めて聞く名前です。チェレスタとという珍しい楽器が使われています。またピアノも加わっているのですが、クラシック音楽には(自分が知らないだけかもしれないが)珍しくオーケストラの楽器群の後方に配置されています。

モーツァルトの交響曲第41番を生演奏で聴くのは初めてです。予想通りですが、指揮者も演奏者もテンションが上がる力演でありました。

来年度のプログラム(定期演奏会はこちら)はすでに発表されていますが、はたしてどんな体制の演奏会になるだろうか。曲目は休憩ありの2時間程度を想定しているようですが。

 

2021年2月27日 (土)

「坊っちゃん」(夏目漱石、昭和25(1950)年、新潮文庫)

「坊っちゃん」(夏目漱石、昭和25(1950)年、新潮文庫/原作は明治39(1906)年)

この小説は小学生のとき、たしか4年生だと思うが、夏休みの読書感想文を書くために読みました。先生に勧められたからではなくて、父の勧めだったと思います。
感想文を書いた記憶はかすかにあるのですが、話の筋はまったくと言ってよいくらいに記憶にありません。「赤シャツ」だとか「山嵐」のようなあだ名が印象に残ったぐらいです。勧めた父自身、読んだことがあるのか今となっては不明(たぶん無い。おそらく、本格的な小説といえば夏目漱石、というステレオタイプな知識から来たのではないか)。
ところがこの作品は今でも子供向け文庫に収録されているらしい。

「文庫解説ワンダーランド」(斎藤美奈子、2017年、岩波新書)で「坊っちゃん」が取り上げられていて、それで今回また読んでみようという気になったわけです。



ストーリーは決して難しい小説ではないですが、やはり小学生には無理かな。小学生に理解できる箇所というと、主人公の子供時代のエピソードとか、中学校に就職後、生徒たちにからかわれたところとか、祭りの場で生徒たちの喧嘩に巻き込まれた場面ぐらいではないか。

主人公は世間知らずというか、世渡りが下手なんだろう(だから「坊っちゃん」なのだ)。主人公はかならずしも学校(狸や赤シャツら)から山嵐やうらなりが受けたような不当な扱い、不利益、を受けていたわけではない(軽くあしらわれていたが)。だから最後の待ち伏せのところでも山嵐ほどには執念を持ってなかったようです(「今晩だめだったら、おれは止めるぜ」と言っている)。しかし、野だから「坊っちゃん」呼ばわりされるに及んでついに切れてしまいましたね。

 

主人公とは別に山嵐も興味深い人物です。小説の途中まではもっともよくできた人物に見えました。主人公の宿直の際のいざこざを弁護する発言をしたり、主人公に何度も忠告を与えたりと良いところを見せています。一方でうらなりの婚約者を赤シャツが横取りした件で、赤シャツに意見をしに行ったり、うらなりの送別会で赤シャツらに対する当てつけ発言をしたりは余計だったかもしれないですけれども。
しかし、その山嵐も最後には切れてしまった。

【美術館】「アンドリュー・ワイエスと丸沼芸術の森コレクション」展/岐阜県現代陶芸美術館

【美術館】「アンドリュー・ワイエスと丸沼芸術の森コレクション」展/岐阜県現代陶芸美術館 (2021年02月15日、岐阜県多治見市)

新型コロナウイルスの緊急事態宣言中ということでレストランが休業中だったのはあてが外れた。PAで軽食を取っていたとはいっても少々エネルギー切れの状態で作品を鑑賞するはめになった。

アンドリュー・ワイエスについてはライフワークとしていたオルソン家を主題とする作品が中心だった。「習作」と題されている作品が多かったが、素人目には十分な完成度に見えます。鉛筆書きのデッサンの白い部分に鉛筆書きで色の名前が記入されている(らしい)例もあり、確かに習作であることが分かります。習作と完成作との比較ができる展示でないのが残念です。

ワイエス以外の作家のコレクションは国内の陶芸がほとんど。古くからある茶碗のほか現代的なアイディアを形にした作品もあるにはあったが、そのオリジナリティをどう評価していいかは分かりません(自分にその能力がない)。
とくに古くからある茶碗についてはその良さがさっぱりわかりません。その辺で売っている茶碗とどう違うのか。意地の悪い言い方をするなら、それらの作品の価値は作家と切り離せないのではないか。「誰々作」というブランドだから収集&展示の対象になるのだ。

最後に丸森芸術の森が現在支援している作家の作品がありました。それらはほとんどがポップアートです。
作家の感謝の言葉も掲示されていましたが、自分の顧客を開拓できない作家にとってはパトロンの存在は大きいようです。

 

2021年2月 5日 (金)

「走れメロス」(太宰治、昭和42(1967)年、新潮文庫)

「走れメロス」(太宰治、昭和42(1967)年、新潮文庫)

「文庫解説ワンダーランド」(斎藤美奈子、2017年、岩波新書)で著者は「走れメロス」について次のように書いています。

私には「走れメロス」が友情と正義なんて言葉で語れる作品だとはとても思えないのですけどね。(35ページ)
猜疑心が強く、圧制を敷いてきた王が、たかだかバカな若者が必死で走ったくらいで、簡単に翻意するものだろうか。(36ページ)

要するに王は二人の若者を、民衆の支持を集めるためのパフォーマンスに利用した、というの斎藤氏の理解である。

この理解にはなるほどと感心しましたけど、本当にそう理解して良いのか気になったので、今更だが「走れメロス」を読んでみた。



メロスの行動ははっきり言って変です。

暴虐な王の城に一人で乗り込んでいる。
セリヌンティウスを人質として置いておくことを自分一人で決めて王に提案している。
王の殺害に失敗したときのことを考えてない。自分だけでなく、妹夫婦の身もどうなることか。

太宰が「メロスは、単純な男であった」と書いている通りです。

一方の王だが、最初は「帰ってこないにきまってる。そのときは身代わりの人質を殺してやる」と思っています。ところがメロスが戻ってくると、王の心理描写は何もなくいきなり「お前たちはわしの心に勝った」と言っています。
本文を読む限り、王の少なくとも意識的な政治的パフォーマンスは読み取りにくいと思います。

小説発表当時の読者は当時の日本の世相(大戦初期)と重ねて読んだかもしれません。
しかし、メロスが単純なら王も単純、ド直球な友情物語とも読めてしまいます。太宰自身、この種の美談に感動しないタイプの人なので不思議ですが、太宰なりの理想はあるのかもしれません。

太宰治研究の世界では成果が蓄積されているのかもしれませんが、私的にはこれ以上深入りするのはやめておきます。

 

2021年2月 2日 (火)

「文庫解説ワンダーランド」(斎藤美奈子、2017年、岩波新書)

「文庫解説ワンダーランド」(斎藤美奈子、2017年、岩波新書)

多くの文庫本の巻末に付いている「解説」を論評しています。対象となる作品(「解説」が対象としている作品)はほとんどが明治以降、90年代末までに発表されたものです(例外は「ハムレット」(シェイクスピア)、「葉隠」(山本常朝)、「永遠の0」(百田直樹)、ぐらい)。

ジャンルとしてはいわゆる「文学」が中心になりますが、「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)、「資本論」(マルクス)、小林秀雄なども取り上げられています。文学の選択の幅はかなり広くて、夏目漱石のような古典から妹尾河童・百田直樹ら割と近年の作品、「小公女」「ビルマの竪琴」のような児童文学、「なんとなく、クリスタル」「限りなく透明に近いブルー」など当時の話題作、といったぐあいです。

日本の古典作品だと本文は変わらないわけだし、とすると解説を書き直す必要もないはず、と思っていたら大分様子が違いました。例えば夏目漱石の「三四郎」だと、私が新潮文庫版で読んだのは70年代の末でしたが、現行の新潮文庫版は1986年、岩波文庫版は1990年というぐあいです。外国文学の翻訳も同様で、「ハムレット」は2000年代にも新訳が出ています(その際に解説も書き直される)。

新しい解説は以前の解説をそのまま受け継いでいるとは限らない。過去の解説に対する批判、新しい読み方が提示されることもある。そこに解説自体の面白さがあるのでは、と斎藤氏は考えるわけです。
また、解説者に三島由紀夫、井伏鱒二、江藤淳などの「大物」が起用されていても、まともに解説している・できているとは限らない。その点も斎藤氏は遠慮なく批判を加えていきます。

【走れメロス/太宰治】
一例をあげるならばこれ。
本書で取り上げられている作品のなかで最も多くの人に読まれているものと言ってよいでしょう。私のときは中学の国語教科書に載っていましたが、今もそうらしい。(本書を読んだ後で新潮文庫版「走れメロス」を入手しました。文学の文庫本を買うなんて何十年ぶりだ。)

「走れメロス」は「友情物語」と読まれることが多いようだ。私も中学のときそう思いましたし(国語の先生はどのように説明したか記憶がまったく無いのですが)、幾つかの文庫の解説もそう書いています。
しかし斎藤氏は疑問を呈します。

猜疑心が強く、圧制を敷いてきた王が、たかだかバカな若者が必死で走ったくらいで、簡単に翻意するものだろうか。(本書36ページ)

王はバカな若者(「メロスは単純な男であった」と太宰は書いている)を政治的パフォーマンスに利用した。そして、群衆から「王様万歳」の歓声が起こったことで王の目論見通りとなった。というのが斎藤氏の理解である。こういう読み方をしている文庫解説がないのは何故だ、と斎藤氏は疑問を呈しています。

「走れメロス」に関して、斎藤氏はもう一つ問題にしています。それは岩波文庫版で解説(あとがき)を書いている井伏鱒二の「態度」についてです。井伏は「走れメロス」という作品については解説も論評もしないで、太宰との交友のエピソードをたらたら書いているだけである。これはどういうつもりだろうか、というわけです。

斎藤氏は以上の問題について原因を推測し仮説めいたものを書いていますが、要は解説者の太宰に対する偏見が作品そのものの評価を妨げているのでは...。

【文庫熱】
本書の帯に「あなたの文庫熱に火をつける」とあります。私自身の場合は、

「雪国」(川端康成) ... 高校生のとき挫折した。登場人物らの言動が理解を超えていました。しかし本書を読んで再挑戦したくなりましたね。
「三四郎」(夏目漱石) ... いまさら青春文学でもないと思いますが、「美禰子は三四郎が好きだったのか」という論争は気になるので、自分なりに答えを見つけてもよいかも。
「なんとなく、クリスタル」(田中康夫) ... こんなのが昔話題になってたな、と思いますが、挑戦するかどうかは迷います。
「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎) ... これも古くからある本ですが、タイトルから人生訓みたいなものかと思ってました。

2021年1月12日 (火)

「今こそ「社会主義」混迷する世界を読み解く補助線」(池上彰・的場昭弘、2020年、朝日新聞出版)

今こそ「社会主義」混迷する世界を読み解く補助線」(池上彰・的場昭弘、2020年、朝日新聞出版)

池上氏はテレビにもよく出ているジャーナリストだが、著作を読むのは今回はじめてである。一方、的場氏は古典的(19・20世紀)社会主義の専門家らしい。この二人の対談。

第一章では現在の資本主義経済の行き詰まりが確認される。最大の問題は格差の拡大である、と。
第二章では20世紀における社会主義国の失敗の原因が再確認される。社会主義国といえばソ連だが、それだけではなくユーゴスラビア・キューバ・チリなども取り上げられている。
第三章ではふたたび現在に戻って、資本主義経済の行き詰まりとコロナ禍が政治における自国ファーストのながれを作り出していることが確認される。それはアメリカだけでなくEUすらそうなっていると。
それで最終章の第四章だが、最初はまた現状確認から始まります。過少消費の社会になってる、と。そして、消費喚起の政策の必要性や対コロナ政策から「大きな政府」が復活してきた。その流れを見つつ両氏の「社会的共通資本を取り戻さなければならない」という主張が訴えられています。
社会的共通資本とは何かですが、医療資源や公共交通機関があげられています。的場氏によれば大学も。「取り戻す」というのは、新自由主義経済の元で衰えたこれらの資本の再構築、というぐらいの意味です。

とすると、書名にもある「社会主義」とは何?、ということになります。あとがきで的場氏は「社会性、すなわち公共性を重視するという意味での「社会主義」です。」と書いています。
だったら、池上氏からすれば対談相手は古典的社会主義の専門家である的場氏よりもふさわしい人がいるのでは、と思えます。たとえば現代経済の専門家であるとか、現代社会の行き詰まりを打開しようというすくなくとも問題意識だけはある政治家とか。具体的に誰がよいかは分かりませんが。

 

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