2021年2月27日 (土)

「坊っちゃん」(夏目漱石、昭和25(1950)年、新潮文庫)

「坊っちゃん」(夏目漱石、昭和25(1950)年、新潮文庫/原作は明治39(1906)年)

この小説は小学生のとき、たしか4年生だと思うが、夏休みの読書感想文を書くために読みました。先生に勧められたからではなくて、父の勧めだったと思います。
感想文を書いた記憶はかすかにあるのですが、話の筋はまったくと言ってよいくらいに記憶にありません。「赤シャツ」だとか「山嵐」のようなあだ名が印象に残ったぐらいです。勧めた父自身、読んだことがあるのか今となっては不明(たぶん無い。おそらく、本格的な小説といえば夏目漱石、というステレオタイプな知識から来たのではないか)。
ところがこの作品は今でも子供向け文庫に収録されているらしい。

「文庫解説ワンダーランド」(斎藤美奈子、2017年、岩波新書)で「坊っちゃん」が取り上げられていて、それで今回また読んでみようという気になったわけです。



ストーリーは決して難しい小説ではないですが、やはり小学生には無理かな。小学生に理解できる箇所というと、主人公の子供時代のエピソードとか、中学校に就職後、生徒たちにからかわれたところとか、祭りの場で生徒たちの喧嘩に巻き込まれた場面ぐらいではないか。

主人公は世間知らずというか、世渡りが下手なんだろう(だから「坊っちゃん」なのだ)。主人公はかならずしも学校(狸や赤シャツら)から山嵐やうらなりが受けたような不当な扱い、不利益、を受けていたわけではない(軽くあしらわれていたが)。だから最後の待ち伏せのところでも山嵐ほどには執念を持ってなかったようです(「今晩だめだったら、おれは止めるぜ」と言っている)。しかし、野だから「坊っちゃん」呼ばわりされるに及んでついに切れてしまいましたね。

 

主人公とは別に山嵐も興味深い人物です。小説の途中まではもっともよくできた人物に見えました。主人公の宿直の際のいざこざを弁護する発言をしたり、主人公に何度も忠告を与えたりと良いところを見せています。一方でうらなりの婚約者を赤シャツが横取りした件で、赤シャツに意見をしに行ったり、うらなりの送別会で赤シャツらに対する当てつけ発言をしたりは余計だったかもしれないですけれども。
しかし、その山嵐も最後には切れてしまった。

【美術館】「アンドリュー・ワイエスと丸沼芸術の森コレクション」展/岐阜県現代陶芸美術館

【美術館】「アンドリュー・ワイエスと丸沼芸術の森コレクション」展/岐阜県現代陶芸美術館 (2021年02月15日、岐阜県多治見市)

新型コロナウイルスの緊急事態宣言中ということでレストランが休業中だったのはあてが外れた。PAで軽食を取っていたとはいっても少々エネルギー切れの状態で作品を鑑賞するはめになった。

アンドリュー・ワイエスについてはライフワークとしていたオルソン家を主題とする作品が中心だった。「習作」と題されている作品が多かったが、素人目には十分な完成度に見えます。鉛筆書きのデッサンの白い部分に鉛筆書きで色の名前が記入されている(らしい)例もあり、確かに習作であることが分かります。習作と完成作との比較ができる展示でないのが残念です。

ワイエス以外の作家のコレクションは国内の陶芸がほとんど。古くからある茶碗のほか現代的なアイディアを形にした作品もあるにはあったが、そのオリジナリティをどう評価していいかは分かりません(自分にその能力がない)。
とくに古くからある茶碗についてはその良さがさっぱりわかりません。その辺で売っている茶碗とどう違うのか。意地の悪い言い方をするなら、それらの作品の価値は作家と切り離せないのではないか。「誰々作」というブランドだから収集&展示の対象になるのだ。

最後に丸森芸術の森が現在支援している作家の作品がありました。それらはほとんどがポップアートです。
作家の感謝の言葉も掲示されていましたが、自分の顧客を開拓できない作家にとってはパトロンの存在は大きいようです。

 

2021年2月 5日 (金)

「走れメロス」(太宰治、昭和42(1967)年、新潮文庫)

「走れメロス」(太宰治、昭和42(1967)年、新潮文庫)

「文庫解説ワンダーランド」(斎藤美奈子、2017年、岩波新書)で著者は「走れメロス」について次のように書いています。

私には「走れメロス」が友情と正義なんて言葉で語れる作品だとはとても思えないのですけどね。(35ページ)
猜疑心が強く、圧制を敷いてきた王が、たかだかバカな若者が必死で走ったくらいで、簡単に翻意するものだろうか。(36ページ)

要するに王は二人の若者を、民衆の支持を集めるためのパフォーマンスに利用した、というの斎藤氏の理解である。

この理解にはなるほどと感心しましたけど、本当にそう理解して良いのか気になったので、今更だが「走れメロス」を読んでみた。



メロスの行動ははっきり言って変です。

暴虐な王の城に一人で乗り込んでいる。
セリヌンティウスを人質として置いておくことを自分一人で決めて王に提案している。
王の殺害に失敗したときのことを考えてない。自分だけでなく、妹夫婦の身もどうなることか。

太宰が「メロスは、単純な男であった」と書いている通りです。

一方の王だが、最初は「帰ってこないにきまってる。そのときは身代わりの人質を殺してやる」と思っています。ところがメロスが戻ってくると、王の心理描写は何もなくいきなり「お前たちはわしの心に勝った」と言っています。
本文を読む限り、王の少なくとも意識的な政治的パフォーマンスは読み取りにくいと思います。

小説発表当時の読者は当時の日本の世相(大戦初期)と重ねて読んだかもしれません。
しかし、メロスが単純なら王も単純、ド直球な友情物語とも読めてしまいます。太宰自身、この種の美談に感動しないタイプの人なので不思議ですが、太宰なりの理想はあるのかもしれません。

太宰治研究の世界では成果が蓄積されているのかもしれませんが、私的にはこれ以上深入りするのはやめておきます。

 

2021年2月 2日 (火)

「文庫解説ワンダーランド」(斎藤美奈子、2017年、岩波新書)

「文庫解説ワンダーランド」(斎藤美奈子、2017年、岩波新書)

多くの文庫本の巻末に付いている「解説」を論評しています。対象となる作品(「解説」が対象としている作品)はほとんどが明治以降、90年代末までに発表されたものです(例外は「ハムレット」(シェイクスピア)、「葉隠」(山本常朝)、「永遠の0」(百田直樹)、ぐらい)。

ジャンルとしてはいわゆる「文学」が中心になりますが、「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)、「資本論」(マルクス)、小林秀雄なども取り上げられています。文学の選択の幅はかなり広くて、夏目漱石のような古典から妹尾河童・百田直樹ら割と近年の作品、「小公女」「ビルマの竪琴」のような児童文学、「なんとなく、クリスタル」「限りなく透明に近いブルー」など当時の話題作、といったぐあいです。

日本の古典作品だと本文は変わらないわけだし、とすると解説を書き直す必要もないはず、と思っていたら大分様子が違いました。例えば夏目漱石の「三四郎」だと、私が新潮文庫版で読んだのは70年代の末でしたが、現行の新潮文庫版は1986年、岩波文庫版は1990年というぐあいです。外国文学の翻訳も同様で、「ハムレット」は2000年代にも新訳が出ています(その際に解説も書き直される)。

新しい解説は以前の解説をそのまま受け継いでいるとは限らない。過去の解説に対する批判、新しい読み方が提示されることもある。そこに解説自体の面白さがあるのでは、と斎藤氏は考えるわけです。
また、解説者に三島由紀夫、井伏鱒二、江藤淳などの「大物」が起用されていても、まともに解説している・できているとは限らない。その点も斎藤氏は遠慮なく批判を加えていきます。

【走れメロス/太宰治】
一例をあげるならばこれ。
本書で取り上げられている作品のなかで最も多くの人に読まれているものと言ってよいでしょう。私のときは中学の国語教科書に載っていましたが、今もそうらしい。(本書を読んだ後で新潮文庫版「走れメロス」を入手しました。文学の文庫本を買うなんて何十年ぶりだ。)

「走れメロス」は「友情物語」と読まれることが多いようだ。私も中学のときそう思いましたし(国語の先生はどのように説明したか記憶がまったく無いのですが)、幾つかの文庫の解説もそう書いています。
しかし斎藤氏は疑問を呈します。

猜疑心が強く、圧制を敷いてきた王が、たかだかバカな若者が必死で走ったくらいで、簡単に翻意するものだろうか。(本書36ページ)

王はバカな若者(「メロスは単純な男であった」と太宰は書いている)を政治的パフォーマンスに利用した。そして、群衆から「王様万歳」の歓声が起こったことで王の目論見通りとなった。というのが斎藤氏の理解である。こういう読み方をしている文庫解説がないのは何故だ、と斎藤氏は疑問を呈しています。

「走れメロス」に関して、斎藤氏はもう一つ問題にしています。それは岩波文庫版で解説(あとがき)を書いている井伏鱒二の「態度」についてです。井伏は「走れメロス」という作品については解説も論評もしないで、太宰との交友のエピソードをたらたら書いているだけである。これはどういうつもりだろうか、というわけです。

斎藤氏は以上の問題について原因を推測し仮説めいたものを書いていますが、要は解説者の太宰に対する偏見が作品そのものの評価を妨げているのでは...。

【文庫熱】
本書の帯に「あなたの文庫熱に火をつける」とあります。私自身の場合は、

「雪国」(川端康成) ... 高校生のとき挫折した。登場人物らの言動が理解を超えていました。しかし本書を読んで再挑戦したくなりましたね。
「三四郎」(夏目漱石) ... いまさら青春文学でもないと思いますが、「美禰子は三四郎が好きだったのか」という論争は気になるので、自分なりに答えを見つけてもよいかも。
「なんとなく、クリスタル」(田中康夫) ... こんなのが昔話題になってたな、と思いますが、挑戦するかどうかは迷います。
「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎) ... これも古くからある本ですが、タイトルから人生訓みたいなものかと思ってました。

2021年1月12日 (火)

「今こそ「社会主義」混迷する世界を読み解く補助線」(池上彰・的場昭弘、2020年、朝日新聞出版)

今こそ「社会主義」混迷する世界を読み解く補助線」(池上彰・的場昭弘、2020年、朝日新聞出版)

池上氏はテレビにもよく出ているジャーナリストだが、著作を読むのは今回はじめてである。一方、的場氏は古典的(19・20世紀)社会主義の専門家らしい。この二人の対談。

第一章では現在の資本主義経済の行き詰まりが確認される。最大の問題は格差の拡大である、と。
第二章では20世紀における社会主義国の失敗の原因が再確認される。社会主義国といえばソ連だが、それだけではなくユーゴスラビア・キューバ・チリなども取り上げられている。
第三章ではふたたび現在に戻って、資本主義経済の行き詰まりとコロナ禍が政治における自国ファーストのながれを作り出していることが確認される。それはアメリカだけでなくEUすらそうなっていると。
それで最終章の第四章だが、最初はまた現状確認から始まります。過少消費の社会になってる、と。そして、消費喚起の政策の必要性や対コロナ政策から「大きな政府」が復活してきた。その流れを見つつ両氏の「社会的共通資本を取り戻さなければならない」という主張が訴えられています。
社会的共通資本とは何かですが、医療資源や公共交通機関があげられています。的場氏によれば大学も。「取り戻す」というのは、新自由主義経済の元で衰えたこれらの資本の再構築、というぐらいの意味です。

とすると、書名にもある「社会主義」とは何?、ということになります。あとがきで的場氏は「社会性、すなわち公共性を重視するという意味での「社会主義」です。」と書いています。
だったら、池上氏からすれば対談相手は古典的社会主義の専門家である的場氏よりもふさわしい人がいるのでは、と思えます。たとえば現代経済の専門家であるとか、現代社会の行き詰まりを打開しようというすくなくとも問題意識だけはある政治家とか。具体的に誰がよいかは分かりませんが。

 

2021年1月10日 (日)

アメリカの手続きデモクラシー

アメリカ政治の専門家二人(久保文明氏と古矢旬氏)の対談(「深き分断 アメリカのこれから」/「世界」2021年1月号。この対談は2020年11月の中ごろと思われる)における古矢氏の発言:

今回の選挙で注目されるのは、共和党の議員や、場合によってはトランプ氏がいま選挙結果の最終判定者として期待をかけている連邦裁判所の判事たちが、どこまでアメリカのデモクラシーの本質である手続きデモクラシーを順守するだろうかという点です。

この対談から2カ月の間、ほぼすべてが順守の方向に動いているように見えます。

ここに、今後四年間のアメリカの政治体制の展望がかかっていると言えるでしょう。

混乱もありますが強さもあるようで、これもアメリカの分断の一断面といえるのかもしれません。

 

2020年12月31日 (木)

MAINICHI WEEKLY 休刊

毎日新聞社が発行していた英語の学習新聞「MAINICHI WEEKLY」が休刊となった。
生の英語ならネットでいくらでも読めるというのもあるし、お金を出して教材を買うということが厳しくなってきた、というのも休刊の背景にあるかもしれませんね。

うちでは6年ぐらい前から購読していました。主たる読者は家族の者で、私自身はCrossword(クロスワードパズル)をやっていただけでしたが。
このクロスワードパズルは英語を知っているだけではだめで、言葉に関するちょっとしたセンスを要求されることがあり、頭の体操として私は好きでした。

写真は以前回答を送って当たったシャープペンシルで、太さ1.3mmというちょっと珍しいものです。これを使うと試験のマークシートを素早く塗りつぶせるという。

Mainichi_weekly 

「学校が教えないほんとうの政治の話」(斎藤美奈子、2016年、ちくまプリマー新書)

「学校が教えないほんとうの政治の話」(斎藤美奈子、2016年、ちくまプリマー新書)

斎藤美奈子さんの熱心な読者では無いが、斎藤さんはこんな本も書くのか、というのが最初の感想。
対象読者は高校生ぐらいからの若い世代だろうが、書店で偶然目にして読んでみた。

複数の座標軸(それぞれの軸が各章に対応している)を元に政治の構造を説明しようとするものだが、自分の高校生時分を思い返してみてもこのような理解はできていなかったので、若い読者には政治理解のたすけにはなるでしょうね(アメリカの民主党を左翼政党だと思っている人がいる現状からすると特に)。

どの章も、歴史・過去の経緯を説くにあたってそれこそ高校の社会科の教科書から引っ張ってきたような用語(「自由民権運動」だとか)を使っていて社会科の授業と同じで退屈に感じるかもしれない。また我々のような年長の世代には今更感があるかもしれない。

「政治に中立はない」と書き、それぞれの座標軸に置ける自分の立場を考えるよう・明確にするように著者は促がしているが、読みようによっては分断を煽っているように読めてしまいます。分断の解決は今後の世代の課題だとして、その方向への思索にも若い読者を促がす記述がもっとあってもよいのでは、と感じた。

 

2020年10月11日 (日)

【美術館】「西洋の木版画」展/町田市立国際版画美術館

【美術館】「西洋の木版画」展/町田市立国際版画美術館 (2020年10月10日、東京都町田市)

前々から行きたいと思いつつチャンスが無かった町田市立国際版画美術館に行ってきました。

JR町田駅のターミナル口から徒歩で行きましたが、美術館手前の坂道は本当に急だった。ここだけではなく、横浜線の電車から見えるあちこちの街並みの多くがこんな感じで、相当無理して町を作ってきたようです。

展示は「西洋の木版画」展だった。アルブレヒト・デューラーだとか聖書の物語などは当然のごとく展示されていましたが、19世紀以降の一般大衆向け、あるいは子供向けの作品が面白かった。このころになると文章は活字で印刷するので読みやすくなってます。

 

【美術館】東京富士美術館

【美術館】東京富士美術館 (2020年10月9日、東京都八王子市)

毎日新聞の懸賞で東京富士美術館の特別展の招待券が当たったので、良い機会ということでこの美術館に初めて行ってきました。
この美術館は常設展が注目に値する、というわけでそちらから見て回ります。

【ピーテル・ブリューゲル(子)】
父の作品(「雪中の狩人」と「農民の結婚式」)の複製が2点展示されていた。
「農民の結婚式」はこれとは別の複製をどこかで一度見ているが、「雪中の狩人」の複製は初めてだと思う。
「雪中の狩人」は父のオリジナルよりはかなり小さいが、変にアレンジしている部分が、狩人の服の強い赤などを除けばあまりなくて上質な複製と思いました。
かたや「農民の結婚式」は舞台を屋内から屋外に移すなどのアレンジを加えている。この画家の特徴的な人物像、とくに目の描写の特徴が遺憾なく発揮されています。

【ナポレオン】
ナポレオン・ボナパルトの他、皇妃、ナポレオン三世など肖像画がいくつもあった。
それどころか、展示室とは別に過去の特別展のポスターが飾ってあるコーナーがあったのですが、ナポレオンに関する特別展をいままでに5、6回やっています。
ナポレオンに対するこだわりがこの美術館にはあるようです。

(そういえば、この美術館のとなりに宮殿みたいな建物がありました。路線バスから見る限り敷地内に人影はなく、建物の名称や所有者を窺わせる表記・看板も見当たらなかったので何かの廃墟かと思いましたが、そうではないようです。「創価学会 東京牧ロ記念会館」というらしい。2020/10/15 追記)

【20世紀】
デ・キリコの作品の実物をおそらく初めて見ました。それ以外にもアンディ・ウォーホール、ロイ・リキテンシュタインなど、今回の常設展でもっとも上質な展示は20世紀美術だと思います。

【17世紀から19世紀前半】
当時のオーソドックスな肖像画や風景画が多く、特筆すべきものはあまりなかったかな。名前を初めて見た画家が多かったです、と言うか知っている名前の方が少なかった。(知ってる名前というと、カナレット、イアサント・リゴー、アントワーヌ・ジャン・グロ、ぐらい)
19世紀のイギリスの画家による風景画がいくつもありました。どれも17世紀以来の風景画のスタイルで特にどうということはなかったですが、このジャンルの根強い需要を感じさせます。

【特別展:「THIS IS JAPAN」展】
元々この特別展の招待券をもらったからわざわざ八王子まで出かけたわけですが、この特別展にはあまり期待していませんでした。
それでも吉田博という画家を知ったのは収穫でした。この人は大正~昭和初期という時代に山に籠ってまでして富士山などの山岳風景を木版画にしています。富士山を描くにしても「日本画風」でないところがよいです。

【総評 (2020/10/15 追記)】
なかなか見ごたえのある美術館でした。静岡・熱海のMOA美術館よりは間違いなく上です。
「芸術新潮 2020年1月号」の記事によれば、この美術館はジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品も所蔵しているらしい。今回は残念ながら出てなかったが、機会があれば見てみたいです。

 

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