2021年3月26日 (金)

「小説集 夏の花」(原民喜、1983年、岩波文庫)

「小説集 夏の花」(原民喜、1983年、岩波文庫)

この本も「文庫解説ワンダーランド」(斎藤美奈子、2017年、岩波新書)で取り上げられていたものです。

「夏の花」を読むと「はだしのゲン」を思い出します。小学生のとき少年ジャンプに連載された「はだしのゲン」をリアルタイムで読みました。8月6日の朝、「私」(おそらく原民喜)が起床したちょうどそのころ、ゲンは(作者の中沢啓治は)登校の校門で女性に呼び止められて会話をしていると米軍機が飛来していることに気が付いて...。


「文庫解説ワンダーランド」によれば「夏の花」について大江健三郎、リービ英雄らの論者がこの作品を私小説として評価する評論を展開しているようですが、正直言って私にはそれらをよく理解できません。実体験の報告と創作とが渾然一体になったような小説を私小説というのか、と今頃理解したレベルですね。

「はだしのゲン」では被爆者に対する理不尽な行為・態度・差別・偏見も描かれていて読み進めるのが本当にきつかった(結局、連載を最後まで読んでません)。しかし、原民喜の「小説集 夏の花」にはその側面の記述はほとんどないです。

この小説集に収録された作品のなかでは原爆直後を描いた「夏の花」「廃墟から」などよりは、戦中・戦後の生活を描いた「壊滅の序曲」「氷花」などに私は興味があります。

とくに「氷花」は戦後の混乱の中で彷徨う知識人を描いている。戦後1年以上経過して2人の兄はもちろん、夫を亡くした姉と妹も新しい生活を徐々に作っていっているにも拘わらず、ただ一人本人(これも原民喜本人か)だけはっきりしない状況が続いています。これは単なる知識人の弱さ、もあるかもしれませんが、民樹が妻を失って家族を持たないから、というのもあるのではないか。

 

2021年3月 8日 (月)

「雪国」(川端康成、新潮文庫)

「雪国」(川端康成、新潮文庫/原作は昭和12(1937)年)

これは高校生のときに挑戦したけれども、始めの方で早々と挫折してしまった。登場人物の発言がまったく理解不能だったのだ。
最近、「文庫解説ワンダーランド」(斎藤美奈子、2017年、岩波新書)で取り上げられているのを読んで、今回40年ぶりに再挑戦する気になった。
昔買った新潮文庫版(昭和22年発行。昭和48年改版)で読み始めたが、途中で現行の新潮文庫版(平成18年改版)には注が付いていることを知ったので、そちらも購入して参照した。


今回最後まで読み進めて結局最後まで謎だったのは、駒子と葉子と行男の関係だ。周囲は駒子は行男の許嫁であると思っているが、駒子自身は強く否定している。確かに葉子と行男が温泉町に帰ってきたときにはすでにこの二人の関係は密で、駒子は彼らに対して距離すら置いている。
この謎は島村にとっても同様で、駒子から聞き出そうとしたり、三回目の温泉町訪問でついに葉子と直接会話したりするわけだが。

斎藤美奈子著「文庫解説ワンダーランド」で、斎藤さんは

駒子の自尊心を無視して彼女をモノにした島村は、その瞬間から駒子への興味を失い、葉子に関心を移したのではなかったか。

と書いていますが、島村の駒子に対する思いの変化と、葉子への関心とは別のように私には思えます。島村が駒子を"モノにした"のは1回目の温泉町訪問の時だけど、二回目の訪問の目的は駒子に会うためでしょう。三回目の訪問もです。二回目の訪問の車中で葉子を偶然目撃して以来、島村は葉子に惹かれてはいたけど、葉子を"モノにしよう"という気持ちは無いのでは?

島村の駒子に対する気持ちの退却は二回目から三回目の訪問で徐々に進行していったようですが、そのプロセスはやはり難解です。単に「東京に妻子がいるから」を理由にしてしまっては身も蓋もないですね。

 

2021年2月27日 (土)

「坊っちゃん」(夏目漱石、昭和25(1950)年、新潮文庫)

「坊っちゃん」(夏目漱石、昭和25(1950)年、新潮文庫/原作は明治39(1906)年)

この小説は小学生のとき、たしか4年生だと思うが、夏休みの読書感想文を書くために読みました。先生に勧められたからではなくて、父の勧めだったと思います。
感想文を書いた記憶はかすかにあるのですが、話の筋はまったくと言ってよいくらいに記憶にありません。「赤シャツ」だとか「山嵐」のようなあだ名が印象に残ったぐらいです。勧めた父自身、読んだことがあるのか今となっては不明(たぶん無い。おそらく、本格的な小説といえば夏目漱石、というステレオタイプな知識から来たのではないか)。
ところがこの作品は今でも子供向け文庫に収録されているらしい。

「文庫解説ワンダーランド」(斎藤美奈子、2017年、岩波新書)で「坊っちゃん」が取り上げられていて、それで今回また読んでみようという気になったわけです。



ストーリーは決して難しい小説ではないですが、やはり小学生には無理かな。小学生に理解できる箇所というと、主人公の子供時代のエピソードとか、中学校に就職後、生徒たちにからかわれたところとか、祭りの場で生徒たちの喧嘩に巻き込まれた場面ぐらいではないか。

主人公は世間知らずというか、世渡りが下手なんだろう(だから「坊っちゃん」なのだ)。主人公はかならずしも学校(狸や赤シャツら)から山嵐やうらなりが受けたような不当な扱い、不利益、を受けていたわけではない(軽くあしらわれていたが)。だから最後の待ち伏せのところでも山嵐ほどには執念を持ってなかったようです(「今晩だめだったら、おれは止めるぜ」と言っている)。しかし、野だから「坊っちゃん」呼ばわりされるに及んでついに切れてしまいましたね。

 

主人公とは別に山嵐も興味深い人物です。小説の途中まではもっともよくできた人物に見えました。主人公の宿直の際のいざこざを弁護する発言をしたり、主人公に何度も忠告を与えたりと良いところを見せています。一方でうらなりの婚約者を赤シャツが横取りした件で、赤シャツに意見をしに行ったり、うらなりの送別会で赤シャツらに対する当てつけ発言をしたりは余計だったかもしれないですけれども。
しかし、その山嵐も最後には切れてしまった。

2021年2月 5日 (金)

「走れメロス」(太宰治、昭和42(1967)年、新潮文庫)

「走れメロス」(太宰治、昭和42(1967)年、新潮文庫)

「文庫解説ワンダーランド」(斎藤美奈子、2017年、岩波新書)で著者は「走れメロス」について次のように書いています。

私には「走れメロス」が友情と正義なんて言葉で語れる作品だとはとても思えないのですけどね。(35ページ)
猜疑心が強く、圧制を敷いてきた王が、たかだかバカな若者が必死で走ったくらいで、簡単に翻意するものだろうか。(36ページ)

要するに王は二人の若者を、民衆の支持を集めるためのパフォーマンスに利用した、というの斎藤氏の理解である。

この理解にはなるほどと感心しましたけど、本当にそう理解して良いのか気になったので、今更だが「走れメロス」を読んでみた。



メロスの行動ははっきり言って変です。

暴虐な王の城に一人で乗り込んでいる。
セリヌンティウスを人質として置いておくことを自分一人で決めて王に提案している。
王の殺害に失敗したときのことを考えてない。自分だけでなく、妹夫婦の身もどうなることか。

太宰が「メロスは、単純な男であった」と書いている通りです。

一方の王だが、最初は「帰ってこないにきまってる。そのときは身代わりの人質を殺してやる」と思っています。ところがメロスが戻ってくると、王の心理描写は何もなくいきなり「お前たちはわしの心に勝った」と言っています。
本文を読む限り、王の少なくとも意識的な政治的パフォーマンスは読み取りにくいと思います。

小説発表当時の読者は当時の日本の世相(大戦初期)と重ねて読んだかもしれません。
しかし、メロスが単純なら王も単純、ド直球な友情物語とも読めてしまいます。太宰自身、この種の美談に感動しないタイプの人なので不思議ですが、太宰なりの理想はあるのかもしれません。

太宰治研究の世界では成果が蓄積されているのかもしれませんが、私的にはこれ以上深入りするのはやめておきます。

 

2021年2月 2日 (火)

「文庫解説ワンダーランド」(斎藤美奈子、2017年、岩波新書)

「文庫解説ワンダーランド」(斎藤美奈子、2017年、岩波新書)

多くの文庫本の巻末に付いている「解説」を論評しています。対象となる作品(「解説」が対象としている作品)はほとんどが明治以降、90年代末までに発表されたものです(例外は「ハムレット」(シェイクスピア)、「葉隠」(山本常朝)、「永遠の0」(百田直樹)、ぐらい)。

ジャンルとしてはいわゆる「文学」が中心になりますが、「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)、「資本論」(マルクス)、小林秀雄なども取り上げられています。文学の選択の幅はかなり広くて、夏目漱石のような古典から妹尾河童・百田直樹ら割と近年の作品、「小公女」「ビルマの竪琴」のような児童文学、「なんとなく、クリスタル」「限りなく透明に近いブルー」など当時の話題作、といったぐあいです。

日本の古典作品だと本文は変わらないわけだし、とすると解説を書き直す必要もないはず、と思っていたら大分様子が違いました。例えば夏目漱石の「三四郎」だと、私が新潮文庫版で読んだのは70年代の末でしたが、現行の新潮文庫版は1986年、岩波文庫版は1990年というぐあいです。外国文学の翻訳も同様で、「ハムレット」は2000年代にも新訳が出ています(その際に解説も書き直される)。

新しい解説は以前の解説をそのまま受け継いでいるとは限らない。過去の解説に対する批判、新しい読み方が提示されることもある。そこに解説自体の面白さがあるのでは、と斎藤氏は考えるわけです。
また、解説者に三島由紀夫、井伏鱒二、江藤淳などの「大物」が起用されていても、まともに解説している・できているとは限らない。その点も斎藤氏は遠慮なく批判を加えていきます。

【走れメロス/太宰治】
一例をあげるならばこれ。
本書で取り上げられている作品のなかで最も多くの人に読まれているものと言ってよいでしょう。私のときは中学の国語教科書に載っていましたが、今もそうらしい。(本書を読んだ後で新潮文庫版「走れメロス」を入手しました。文学の文庫本を買うなんて何十年ぶりだ。)

「走れメロス」は「友情物語」と読まれることが多いようだ。私も中学のときそう思いましたし(国語の先生はどのように説明したか記憶がまったく無いのですが)、幾つかの文庫の解説もそう書いています。
しかし斎藤氏は疑問を呈します。

猜疑心が強く、圧制を敷いてきた王が、たかだかバカな若者が必死で走ったくらいで、簡単に翻意するものだろうか。(本書36ページ)

王はバカな若者(「メロスは単純な男であった」と太宰は書いている)を政治的パフォーマンスに利用した。そして、群衆から「王様万歳」の歓声が起こったことで王の目論見通りとなった。というのが斎藤氏の理解である。こういう読み方をしている文庫解説がないのは何故だ、と斎藤氏は疑問を呈しています。

「走れメロス」に関して、斎藤氏はもう一つ問題にしています。それは岩波文庫版で解説(あとがき)を書いている井伏鱒二の「態度」についてです。井伏は「走れメロス」という作品については解説も論評もしないで、太宰との交友のエピソードをたらたら書いているだけである。これはどういうつもりだろうか、というわけです。

斎藤氏は以上の問題について原因を推測し仮説めいたものを書いていますが、要は解説者の太宰に対する偏見が作品そのものの評価を妨げているのでは...。

【文庫熱】
本書の帯に「あなたの文庫熱に火をつける」とあります。私自身の場合は、

「雪国」(川端康成) ... 高校生のとき挫折した。登場人物らの言動が理解を超えていました。しかし本書を読んで再挑戦したくなりましたね。
「三四郎」(夏目漱石) ... いまさら青春文学でもないと思いますが、「美禰子は三四郎が好きだったのか」という論争は気になるので、自分なりに答えを見つけてもよいかも。
「なんとなく、クリスタル」(田中康夫) ... こんなのが昔話題になってたな、と思いますが、挑戦するかどうかは迷います。
「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎) ... これも古くからある本ですが、タイトルから人生訓みたいなものかと思ってました。

2021年1月12日 (火)

「今こそ「社会主義」混迷する世界を読み解く補助線」(池上彰・的場昭弘、2020年、朝日新聞出版)

今こそ「社会主義」混迷する世界を読み解く補助線」(池上彰・的場昭弘、2020年、朝日新聞出版)

池上氏はテレビにもよく出ているジャーナリストだが、著作を読むのは今回はじめてである。一方、的場氏は古典的(19・20世紀)社会主義の専門家らしい。この二人の対談。

第一章では現在の資本主義経済の行き詰まりが確認される。最大の問題は格差の拡大である、と。
第二章では20世紀における社会主義国の失敗の原因が再確認される。社会主義国といえばソ連だが、それだけではなくユーゴスラビア・キューバ・チリなども取り上げられている。
第三章ではふたたび現在に戻って、資本主義経済の行き詰まりとコロナ禍が政治における自国ファーストのながれを作り出していることが確認される。それはアメリカだけでなくEUすらそうなっていると。
それで最終章の第四章だが、最初はまた現状確認から始まります。過少消費の社会になってる、と。そして、消費喚起の政策の必要性や対コロナ政策から「大きな政府」が復活してきた。その流れを見つつ両氏の「社会的共通資本を取り戻さなければならない」という主張が訴えられています。
社会的共通資本とは何かですが、医療資源や公共交通機関があげられています。的場氏によれば大学も。「取り戻す」というのは、新自由主義経済の元で衰えたこれらの資本の再構築、というぐらいの意味です。

とすると、書名にもある「社会主義」とは何?、ということになります。あとがきで的場氏は「社会性、すなわち公共性を重視するという意味での「社会主義」です。」と書いています。
だったら、池上氏からすれば対談相手は古典的社会主義の専門家である的場氏よりもふさわしい人がいるのでは、と思えます。たとえば現代経済の専門家であるとか、現代社会の行き詰まりを打開しようというすくなくとも問題意識だけはある政治家とか。具体的に誰がよいかは分かりませんが。

 

2020年8月 7日 (金)

「レトロピア 岐阜」(八角文化会館、2018年)

レトロピア 岐阜」(八角文化会館、2018年)

岐阜のレトロスポットを紹介する、独立系出版社の書籍である。

以下、本書の感想とか批評よりも個人的な思い出が多くなります。

【歓楽街/柳ケ瀬】
高島屋南地区に「江崎模型」という模型屋さんがあって、ここでラジオのキットを買いました。初めて一人で電車に乗り、向かった先はこの店だったと思う。
柳ケ瀬についての思い入れはこれ以外には特にないかな。
(むしろ柳ケ瀬地区に隣接して本店があった書店「自由書房」が無くなっている、というのが感慨深いです。この書店の最後の店が閉店という記事が最近報じられていた。)

本書ではなぜか「まさご座」に触れられていません。全国でも残り少ない現役のストリップ劇場で、レトロピアにふさわしい施設なのですが。

あと、土地勘のある岐阜出身者には不要だけど、他所の読者のためにはある程度詳細な地図があったらよかったと思う。県庁所在地都市の表玄関であるJR駅のすぐ近くにレトロな歓楽街・繊維街・女性街があるのは驚きでは?

【団地街】
私の出身地には県営北方団地がありました。通称「長谷川団地」。60年代末から70年代始めにかけて造成され、中央には給水塔がそびえたっていた。本書56ページの写真でいえば「荒崎団地」のような。

この団地も90年代の末には建て替えが始まりました。最終的に再開発が終わったのはいつか知りませんが、本書の取材前には終わっていたと思われます。

写真は2006年8月撮影の北方団地。

Kitagata_danchi

 

【廃線街】
名鉄揖斐線が本書58ページで取り上げられている。
90年代末までは揖斐線を良く利用してましたが、当時の利用状況からして廃線になるとは思わなかった。名鉄は手を引くとしても何らかの形で存続するだろうと思ってました。実際、他所の電鉄会社に経営を打診した、というような報道もありましたし。

北方の商店街について記憶にあるのは70年代以降ですが、当時すでに衰退が始まっていて、本書59ページにある「遠方から買い付けに来る客でごった返した」という状況ではなかった。
それでも今思い返せば、書店が3軒、レコード店が1軒、スーパーが2軒、家電店も3軒以上、郵便局、岐阜の地銀2行の支店、など総合力のある(?)商店街だった。

10数年行ってないが、今はどんな状況だろうか?

 

2020年7月 6日 (月)

「仏教 第二版」(渡辺照宏、1974年、岩波新書)

「仏教 第二版」(渡辺照宏、1974年、岩波新書)

蔵書を整理していたら出てきた本。おそらく高校生のときに購入して読まずにいたもの。今回40年ぶりに通読してみた。

対象は古代インド仏教である。仏教がインドで廃れた経緯も興味があるが、その時代まではカバーしていない。イスラム教によって駆逐された、というような記述はあるが、ジナ教が現代まで残っていることを考えるとインドで仏教が滅びた経緯は簡単な話ではないのでしょう。

古代にインドから中国にもたらされたサンスクリット仏典の多くが散逸したことを著者は惜しんでいる。それもそうだが、日本についた考えたとき、たとえ漢文約からの重訳になるとしても仏典の日本語訳が成立しなかったというのが日本人にとっての大問題ではないか。この点については著者は触れていない。同じ著者で岩波新書に「日本の仏教」という著作もあるので、そちらではどうだろうか。

 

2019年5月23日 (木)

「古墳の語る古代史」(白石太一郎、2000年、岩波現代文庫)

「古墳の語る古代史」(白石太一郎、2000年、岩波現代文庫)

以下、本書からのメモ書き。

古墳の大きさは造営した王の権力の大きさを表すだけではない。倭国の王国連合の内部における王の格を表すものでもある。

巨大古墳は邪馬台国の時代である3世紀にまでさかのぼることができる。邪馬台国の所在地論争、畿内か九州か、についてはほぼ結論が出た。畿内、それも狭義のヤマトすなわち奈良盆地南東部、現在の桜井市、天理市あたりである。
さらに言えば箸墓古墳が邪馬台国の女王、卑弥呼の墓の可能性が高い。

騎馬民族の渡来について。騎馬民族による日本列島征服というのは考えられないが、鉄資源を朝鮮半島南部に依存していた倭国は騎馬民族との戦闘を通じて騎馬文化の大きな影響を受けたはずだ。

高松塚古墳の 被葬者に ついて。717年に死んだ石上朝臣麻呂(いそのかみあそんまろ)の墓ではないか。

 

箸墓古墳(2016年4月)Hashihaka_1 

2019年3月 3日 (日)

「塩の道」(宮本常一、1985年、講談社学術文庫)

宮本常一さんの著作を読むのは30年ぶりぐらい、おそらく「忘れられた日本人」以来だろう。

3本の文章が載っているがどれも最初から著述として書かれたものではなくて、講演の記録のようだ。

おそらく塩の流通というのは物資の流通のなかでも最古の歴史を持つものでしょうけど、「塩の道」と題された文章はそれを全面的に展開するという感じではなく、近世末期~近代~現代(高度経済成長前)あたりの歴史の断面を民俗学的に跡付けることができる知見・著者の調査経験から跡付けようとするものだ。

本書には著者のユニークな歴史の見方がいくつもでてきます。たとえば平安時代の絵巻物から平安貴族が乗馬に長けていたと推定されること、一般の庶民だけでなく東国の鎌倉武士もそれほど乗馬が得意でなかったこと、から平安貴族は古代初期に大陸から渡来した騎馬民族の後裔ではないか、と推測されています。
これなどは他の専門家からは異論があるのでしょうが、素人のぼくがあれこれ意見を言うこと、言えることではないですね。

稲作技術の伝搬には人の移動がともなったということ。技術の伝搬というと、他所へ教えてもらいに行き技術を持ち帰る、あるいは教える人が来て教えた後帰っていく、あるいは現代的に書物で習得する、というようなことをイメージするわけですが、稲作の伝搬はそうではなく技術を持った集団の移動と定着が必要であった、ということ。これはたしかにそうかもしれません。

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