2019年5月23日 (木)

「古墳の語る古代史」(白石太一郎、2000年、岩波現代文庫)

「古墳の語る古代史」(白石太一郎、2000年、岩波現代文庫)

以下、本書からのメモ書き。

古墳の大きさは造営した王の権力の大きさを表すだけではない。倭国の王国連合の内部における王の格を表すものでもある。

巨大古墳は邪馬台国の時代である3世紀にまでさかのぼることができる。邪馬台国の所在地論争、畿内か九州か、についてはほぼ結論が出た。畿内、それも狭義のヤマトすなわち奈良盆地南東部、現在の桜井市、天理市あたりである。
さらに言えば箸墓古墳が邪馬台国の女王、卑弥呼の墓の可能性が高い。

騎馬民族の渡来について。騎馬民族による日本列島征服というのは考えられないが、鉄資源を朝鮮半島南部に依存していた倭国は騎馬民族との戦闘を通じて騎馬文化の大きな影響を受けたはずだ。

高松塚古墳の 被葬者に ついて。717年に死んだ石上朝臣麻呂(いそのかみあそんまろ)の墓ではないか。

 

箸墓古墳(2016年4月)Hashihaka_1 

2019年3月 3日 (日)

「塩の道」(宮本常一、1985年、講談社学術文庫)

宮本常一さんの著作を読むのは30年ぶりぐらい、おそらく「忘れられた日本人」以来だろう。

3本の文章が載っているがどれも最初から著述として書かれたものではなくて、講演の記録のようだ。

おそらく塩の流通というのは物資の流通のなかでも最古の歴史を持つものでしょうけど、「塩の道」と題された文章はそれを全面的に展開するという感じではなく、近世末期~近代~現代(高度経済成長前)あたりの歴史の断面を民俗学的に跡付けることができる知見・著者の調査経験から跡付けようとするものだ。

本書には著者のユニークな歴史の見方がいくつもでてきます。たとえば平安時代の絵巻物から平安貴族が乗馬に長けていたと推定されること、一般の庶民だけでなく東国の鎌倉武士もそれほど乗馬が得意でなかったこと、から平安貴族は古代初期に大陸から渡来した騎馬民族の後裔ではないか、と推測されています。
これなどは他の専門家からは異論があるのでしょうが、素人のぼくがあれこれ意見を言うこと、言えることではないですね。

稲作技術の伝搬には人の移動がともなったということ。技術の伝搬というと、他所へ教えてもらいに行き技術を持ち帰る、あるいは教える人が来て教えた後帰っていく、あるいは現代的に書物で習得する、というようなことをイメージするわけですが、稲作の伝搬はそうではなく技術を持った集団の移動と定着が必要であった、ということ。これはたしかにそうかもしれません。

2019年1月 3日 (木)

「絵巻で読む中世」(五味文彦、2005年、ちくま学芸文庫)

「絵巻で読む中世」(五味文彦、2005年、ちくま学芸文庫)

日本の中世に成立した絵巻物のうち、中世の初期(平安時代の最末期、12世紀、院政期)の名作を紹介し、読み解く。

本書を貫くキーワードは「王権」である。
これはかなり抽象的な概念だが、当時の王権の危機が政治的には院政となってあらわれ、さらには王権の危機意識は絵巻物にも反映しているというわけだ。

取り上げられている絵巻物のうち、最も興味を引いたのは「信貴山縁起絵巻」ですね。
弟の消息をたずねて信濃から上り信貴山で再会する、というのは王権の話を抜きにして良い話です。王権のお寺である東大寺の験の力によって再会できたわけですが。

本書は文庫本のため、引用されている絵巻が見にくいのが難点です。実物をどこかの展覧会で見たこともないはず。大きく印刷されている書籍を今度探してみよう。

「戦艦大和 生還者たちの証言から」(栗原俊雄、2007年、岩波新書)


戦艦大和の生還者に取材したレポートは過去にいくつも発表されているのではと想像されるが、本書はおそらくその最後になるかもしれない。
後になるほど取材できる生還者や遺族などの関係者は少なくなっていき、また取材できたとしても記憶があいまいになっていくはずで、その中で本書の意義は何だろうか。

おそらく本書はもともと新聞記事として書かれたこと自体に意義があるのでしょうね。それも単に過去の取材記事を紹介するだけで終わるのではなく、少数ではあっても生還者に取材することに意義があるのでしょう。多くの新聞読者がこの記事によって戦艦大和とその乗員の運命を初めて知ったはずです。

生還者自身による著作として最も有名な吉田満著「戦艦大和の最期」には、吉田氏の実体験ではなく伝聞情報にもとづいて書かれたとされている部分があって、その部分が真実かどうかの論争が2005年にもなってあったことを本書で知った。

これほどクリティカルな部分ではないにせよ、大和は最後の戦闘において主砲を撃ったのかどうか、を巡っても生還者の間で記憶が分かれているらしい。

個人的には吉田満氏の記述を巡って他の生存者がどのように考えているかを取材してほしかった点がもう一つありますね。
大和沈没後、他艦による生存者の救出作業の間、米国の偵察機が上空を旋回することで他の米機が攻撃することを妨げた、という記述(講談社文芸文庫版156ページ)。

2018年9月24日 (月)

「音楽 展望と批評 1/2/3」(吉田秀和、朝日文庫)

「音楽 展望と批評 1/2/3」(吉田秀和、朝日文庫)

古書店で偶然手にとって購入した。3冊で2,000円。
割と近年まで活動していた人、というイメージのある著者だが、この3冊に収められている文章は1971年から81年に書かれたものが中心になっている。ということはかなり若いときの文章?と思ったが、著者の生年は1913年である。だからこれらの文章が書かれたのは50歳台末からの10年間ということになる。文章には自分が高齢者であることの自覚が読み取れるものがいくつかあります。
1913年生まれと言えば自分の親よりもさらに10数年から20年ぐらい年上である。

各冊とも後半3分の1ぐらいは「音楽会批評」として、著者が行ってきたコンサートのレポート、批評になっています。今から30年以上まえのコンサートの批評を今読む価値があるのだろうか。実のところ、この部分はほとんど斜め読みでした。

新聞に掲載された当時ならどうだったろう。当時の新聞の読者には著者と同じコンサートへ行き、そしてこの著者の批評を新聞紙上で読んだ人がいたに違いない。その人たちはこの著者の文章に同意するしないを言う以前に、文章を理解できただろうか。もしぼくが、著者と同じコンサートへ行ったとしても、著者のこの文章は理解できないでしょうね。この著者は聞いてきた演奏を文章・言葉にする特異な能力があるのだ。
 

2017年12月17日 (日)

「新註歎異抄」(佐藤正英、朝日文庫)

「新註歎異抄」(佐藤正英、朝日文庫)

古書店でたまたま現代語訳の歎異抄を見つけた。1994年に第一刷発行だが、現在の朝日文庫からは品切れになってるもよう。

歎異抄の原文にある文章の前後関係の混乱を大胆に並べ替え、また訳語に「絶対知」など、いかにも近代的な言葉を使うなど、かなり大胆な現代語訳である。

それらの当否はともかくとして、この歎異抄でもっとも魅力的な箇所は親鸞と唯円とのやりとりの部分、本訳書の章割りでいえば「歎異抄 第9条」(”はやく浄土に生まれたいと思えないのはどうしてでしょう”)とか「歎異抄 第2条」(”念仏を称えることが浄土に生まれるための因みであるのか、地獄に落ちる行為なのか、しりません”)などでしょうね。

とはいえ明治以降の多くの日本人が歎異抄にハマった、そのわけが実感できるところまではたどり着けなかったかな。

2017年11月12日 (日)

「歎異抄」(鈴木大栄校注、岩波文庫)

「歎異抄」(鈴木大栄校注、岩波文庫)

昔のことですが、大学に「歎異抄研究会」なる謎の学生サークル(?)があって、特に新入生にたいしてしつこい勧誘をしていた。そのしつこさに多くの学生が辟易していました。
そのような出来事が原因となって「歎異抄」そのものに対する偏見ができてしまうのは残念なことです。

今回初めて歎異抄にたどり着いたのはこのサークルのせいではなく、昨年以来何冊か読んだ作家・五木寛之氏の著作のおかげです。

何も考えずに岩波文庫版を手に取ったが、発行が1931年とえらく古いものだった。その後の改版で漢字は現行のものに置き換えられているとは言え、語句説明が豊富とは言いがたいので原文だけを読んで「のめり込む」というところまでは行きませんでした。

それでも「念仏によって浄土に生まれることができるのか、地獄に落ちることになるのかはわからない」(第2章)や、「急いで浄土へ行きたいという気持ちが起きないのはなぜろうか」という親鸞と唯円とのやりとり(第9章)などに、押しつけがましさが感じられない親鸞の生身の姿がうかがえましたね。

2017年10月 5日 (木)

「浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか」(島田 裕巳、幻冬舎新書)

「浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか」(島田 裕巳、幻冬舎新書)

タイトルがやや舌足らずで、何が多いのかが判りません。おそらく"信徒が"でしょうか。

内容は、日本の仏教各宗派の歴史概説である。著者自身の歴史観を軸に歴史叙述を展開していく、という感じでもないですね。
200ページ程度の新書で古代から中世にいたる各宗派をまんべんなく取り上げようとすればどこか食い足らないのはしかたない。

仏教というと現代では(あるいは江戸時代からすでに)葬式仏教であり、「死後の極楽往生を願う」教え...みたいな印象がありますが、現実の歴史では飛鳥時代に仏教を国家主導で導入する時から始まり、その後の南都北嶺、中世の一向一揆や石山本願寺、織田信長から徳川幕府に至る近世の宗教政策、さらには明治の神仏分離、廃仏毀釈と、とにかく政治の波に巻き込まれてきた宗教だった。
個別的な宗派の歴史より、政治・経済・社会 対 仏教 みたいな大きな(?)歴史が知りたいです。

全体としてはもの足らないとしても、断片的には興味深い記述がいくつかありました。たとえば、

「今日でも南都六宗の寺院は、檀家のための墓地を設けず、葬儀を営むことがない」(46ページ)。
南都六宗の寺院とは、興福寺、薬師寺、東大寺、元興寺、など。
古代においてはこれらの寺は「官寺」であって、檀家をもたなくても成り立っていた。
現代においても、これらの寺院で僧侶が亡くなってもこれらのお寺が葬儀を営むことはない、と。

「もう一つ戦後(第二次大戦後)の傾向としては、個々の寺院で住職の職が事実上世襲によって受け継がれるケースが増えた」(28ページ)
お寺が親から子へ受け継がれる"家業"になったのはまったく最近のことだったのだ!

「本願寺には ... 神棚を祀ったり、神社に参拝することを拒否したりする。葬儀の際の「清めの塩」を否定する」(141ページ)
これは知らなかった。

2017年9月23日 (土)

「古代飛鳥を歩く」(千田 稔、中公新書)

「古代飛鳥を歩く」(千田 稔、中公新書)

巻頭に本書が対象とする時代の天皇系図が載っている。この系図には天皇名の脇に代数が記載されているのだが、よく見ると38代・天智と40代・天武の間の39代が載っていない。宮内庁のサイトの系図では弘文天皇がいたことになっているが、本書では無視されているのはなぜだろうか。

「飛鳥」をなぜ「あすか」と読むのか、「未だ正解はない」と(5ページ)。「飛鳥」を「あすか」と読む理由があるなど、今まで考えたことがありませんでしたね。

聖徳太子について。何十年も前に習った日本史の知識によれば、聖徳太子は「政治家」のイメージである。推古天皇の摂政であり、十七条の憲法を制定し、遣隋使を送り、という断片的な知識ですけど。
しかし実際には、政治から距離を置き、政治の中心の飛鳥から距離を置いた斑鳩で仏教に専念した人であったようである。
法隆寺の古代建築が生き残ったのは、古代から中世にかけて東大寺や興福寺とは異なって法隆寺が政治勢力にならなかったことが一つの要因だろうが、それは聖徳太子の思想が受け継がれたためか、それとも単に偶然なのだろうか。

2016年12月17日 (土)

「戦艦大和ノ最期」(吉田満、講談社文芸文庫)

「戦艦大和ノ最期」(吉田満、講談社文芸文庫)

初版昭和27年、決定稿昭和49年

学卒で大和の乗員に駆り出され、生還した人の記録。

内容はかなり重いが、少々周辺的なことに注意を引かれました。
著者は結婚後まもない乗員の名をいくつか記しています(62ページ、宮沢兵曹。64ページ、石塚少佐。)。想像だが、これらの背景には縁談をまとめてやろうという周囲(家族)の動きがあったのでは無いか。これも当時の世相かもしれない。未亡人をうみだすことになったが。